しがない感想文

映像制作に関わるサラリーマンの、本や映画の感想ブログ。

自分と立場が違う人を、ついつい恐れてしまうことがある。この前、大阪の立ち飲み屋に入ると、常連さんたちが集まっていた。建設現場で働いている、豪快で男らしそうな人たち。ヤンチャそうなお兄さんから、いい感じの顔になってるおじさんまで。
自分は仕事してるけど、いわゆるホワイトカラーな仕事をしていて、ああいう労働者って感じの人たちを前にすると萎縮してしまうところがある。一方で俺の方が金は稼いでるのだろうかとか、着てるものとかちょっといいもん着ちゃって申し訳ないな、とか無意識で感じているフシがある。上から目線で、何様のつもりだった感じの無意識だ。敵わないな、って感覚もある。重いものをもったり、一日肉体を酷使して働くことは俺にはできなし、人間の原初的な強さを感じて羨ましいなとも思う。
相手がおれのことを見て、どう思うのかはもうほんとにわからない。でも、好感を持って欲しいと思うけど、どうなのかな。わからない。感じるのは、立場も特性も、ふつうに考えると全然違う。だから、怖い。未知のものだと感じるんだ。
人はこういう時、自分を守るために、理解できない世界を遮断しがちだ。勝手に優越感をもったり、勝手に劣等感をもったりする。勝手に優越感を持ってくる人はイヤだ、いつの間にか戦闘状態。理想は誰とも戦闘したくない、それぞれの立場を理解して、ラベル抜きにその個人としてきちんと向き合って、認め合いたいと思う。認めて欲しいと思うし、認めてることをわかっねほしい。
そのためには自分をそのまま、まっすぐ出すことが大事だ。優越感なんて捨てされ、ただ、そのまま。自分の歩んできた人生はそれ以上でもそれ以下でもない。汚いことをして生きてきたつもりもない。できないこともあるけど、でもできることもあるし。
まっすぐに自分を出して、生きていきたい。批判を恐れず、自分を信じていきていきたい。

オールドボーイ

スパイクリーの作品は昔から好きでよく見ていた。リズミカルでスピーディなブラックミュージックのようなタフさがある。
本作は漫画原作、韓国で映画化されたもののハリウッドリメイク。アル中で世に倦んだ中年男が、突然、モーテルのような部屋に20年間監禁される。次第に精神を失調し、狂っていくが、唯一の希望はテレビに映し出される娘の姿。当時3歳だった娘は両親が消えた悲劇の少女としてテレビ番組でその成長が追われていた。男は決して届かない娘への手紙を書くことを日課としながら、アルコールを断ち身体を鍛えて脱走計画を練る。そして、娘に会うため、自分を監禁した人物を探しにゆく…
あらすじはこんな感じ。監禁には理由があり、それは過去に男がしたささいな行動への復讐だった。男の行動はささいではあったが、傷つけられた側にとっては男への復讐の大いなる動機になった。
その復讐の仕方がすごい…こんな仕打ちがあるかというグロテスクな復讐。肉体の痛みや死ではない。精神への苦痛、そして自らがした事への痛烈な罪の意識を植え付けるための復讐である。
なんかこの作品を見て思ったのは、人が他人の感情を理解することはいかに難しいかということ。誰もが大切な人の気持ちを理解しようとはするだろうが、そうでない大多数の他者との無神経なコミュニケーションが大いなる傷を与えている可能性があるということを思わされる。いじめられた側は、いじめた相手を忘れず一生根にもっても、加害者はいじめたことを忘れ去って生きていく。その非対称性。残酷さ。
ハンナアーレントを見た感想ともつながるが、人間は被害意識は強烈に残るが、加害意識を余りにももてない生き物だ。それは、加害の複数性、間接性にあるのかもしれない。教室でのいじめは、首謀者はいるのかもしれないが、ほとんどが「空気」にしたがって、複数によって行われる。無視する流れ、みたいになったら、大多数がそれに加わる。でも空気にしたがってるだけなので、自分が加害者だという意識が生まれない。中心人物の責任だろ、って感じになる。
加害意識は薄れ、被害意識は膨らんでゆく。どれだけ殺したかより、どれだけ殺されたか、だ。いつの時でも。

ハンナアーレント

「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には、動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。(彼のような犯罪者は)人間であることを拒絶した者なのです」
アイヒマンは人間の大切な質を放棄しました。思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となった。思考が出来なくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。”思考の嵐”がもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考えぬくことで、破滅に至らぬように。」

まず、映画のあらすじはこうだ。
舞台は、第二次世界大戦から20年が経ったアメリカ。ドイツ出身のユダヤ人の女性哲学者・ハンナアーレントは、ナチス政権下で弾圧にあい、戦時中にアメリカに逃れてきた。物語は、ナチスの親衛隊将校で、数百万人ものユダヤ人を収容所へ移送したアドルフ・アイヒマンが逮捕されるシーンから始まる。アーレントは、イスラエルで行われた彼の裁判を傍聴し、雑誌・ニューヨーカーでレポートを書くことになる。しかし、彼女が裁判で見たアイヒマンユダヤ人の多くが求めていた残虐な人間性ではなく、官僚的な受け答えしかできない、あまりにも「平凡」な姿だった。彼はナチスドイツでの法の下に、ただ自分の役割をこなしていただけだったのだ。この「凡庸なる悪」を指摘した彼女のレポートは、ユダヤ人達にアイヒマン擁護だとして強烈に批判されていく・・

この映画を見たのは、2回目。はじめて見たときはアーレントの語る「悪の凡庸さ」という言葉に衝撃を覚えた。人間は巨大なシステムの歯車になるとき、そのシステムがもたらす結果についての責任など感じない。それは感覚的によくわかる。数百万人の虐殺をもたらすことがアイヒマンにわかっていても、彼の目の前にあるのは自分の役割だけだった。それは、さながら機械である。思考するということは、無条件に信頼するもの、があってはならない。システムの僕となったとき、いつの間にか自分が悲劇の加害者になる。この危険性は明らかに、誰もが直面する問題だと思う。

そもそも、現在のグローバル資本主義というシステムは、世界全体の富を押し上げつつ、各国での富の集中と貧富の格差を生み出すものだが、そこに生まれる弱者、格差のボトムにいる人間達を生み出すということは、ある種資本主義というシステムで生きる上で誰もが加害者であるということに他ならないと思う。資本主義に乗らずに生きることは難しいから、ある種免れ得ない「悪」だと思うが、しかし、生きているだけで自分が加害者であるという意識を持つ人はほとんどいないだろう。

破滅に至る前に、善悪を、美醜を、人は見分けなければならない。常に、自分が悪に加担している、自分が醜なる存在である可能性を考えなければ、気づけば破滅がやってくる。2017年の現在も、ユダヤ人虐殺ほど明瞭な形でなくとも、誰もがアイヒマンになりうるのだと思う。

大事なのは思考すること。今の時代は以前にも増して自分の頭で考えるということが難しくなっているような感覚を覚える。ネットを介して、情報が洪水のように押し寄せ、機械的にその情報を処理することに追われ、立ち止まって思考する、という時間が人に与えられていないように思う。思考するために、意識をせねばならない時代。しかも、アーレントがいう善悪や美醜など気にしていられないという時代にもなっていると思う。善悪、美醜に絶対的なものはない。ただ、そこには公共的な観点があるべきだと思う。そして、公共的な意識を持って考えることを忘れなければ、少なくとも破滅には向かわないのではないかと思う。
自分は、善悪や美醜を自分なりに思考し、感じながら、生きていきたいものだなと思った。

千と千尋の神隠し

生きている不思議、死んでいく不思議、人も自然も街も同じ。そこにある、そこにいる、ということはつまり、記憶なのだ。
仕事で東日本大震災後の東北の沿岸を4年間取材していた。そこにあったはずの街が津波で跡形もなくなくなり、街があった場所に土が盛られ新たな街を作る工事が進んでいる。被災地に限らず、街は姿を変えていく。瞬間瞬間を重ねて、ひとときも同じでいる、ということはない。そこにあった山、川、自然もそう。人も、そう。
世界はうつろって行く。存在というのは、あまりにもはかなく、危なげである。でも、人には記憶がある。千尋が、ハクによって自らの名前を覚えて入られたように。ハクが千尋によって自分の名前を思い出したように。千尋の身体の中にハクの記憶は刻まれていた。一瞬の交錯であっても、誰かに自分のことを覚えてもらうことで、我々は生きていける。
千尋は両親のすがたを、きちんと見分けることができた。記憶とは愛である。映画監督、森崎東が言っていた言葉だが、千と千尋の神隠しのメッセージとはまさに「記憶とは愛である」ということではなかったか。
千尋とハクが惹かれあったのは、あの世界の中でお互いを覚えている唯一の存在であったからだ。久々に千と千尋を見て、そんなことを思った。他にも見方は膨大にあるだろう、様々なテーマを内包して子供も大人も楽しんで見られる素晴らしい映画だなと改めて思った。宮崎駿おそろし、であります。

マチネの終わりに

私は普段、都内のテレビ制作の会社で働くサラリーマンで、
番組づくりに携わっています。もうすぐ30歳、大学を出て7年が経とうとしています。

ブログを書くのは大学以来。心のままに文章を書く機会を得たいと思い、
本や映画・テレビドキュメンタリーなどで心を打たれるものがあった時は出来るだけ自己満足にならない
感想文を書き記すべく、こうしてブログを始めます。
ほとんどの人の目に触れないのではないかと思いますが、地道に続けていけたらと思います。

最近読んで印象に強く残ったのが平野啓一郎の「マチネの終わりに」。

マチネの終わりに

マチネの終わりに

世界で活躍するギタリストと、フランスの通信社の記者、ともに40歳という年齢の二人が主人公の恋愛小説。
ストーリーが進むとともに「時間」が積み重なっていく。冒頭は「二人の出会い」から始まり、ラストに至るまでには数年の時が流れる。時間の経過は、それぞれのシーンの意味合いを変えていく。

この小説の最も重要なテーマとなる言葉が冒頭で主人公から発せられる。
「人は変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えている。
変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去はそれくらい繊細で感じやすいものである。」

小説の中で”過去の変様”は様々な表現のされ方をする。クラシック音楽では冒頭のテーマの持つ意味が、終盤になると変わる。
つまり全体の中に位置付けられて、初めて本当の意味を持つ。
子供の頃ままごとをしていた庭石に、その後、祖母が転んで頭を打ち付けて亡くなる。幼少期の庭石の記憶は、書き換えられる。
確かに過去の捉え方は常に変わる。もしかしたら、その庭石で飼い猫が救われるとか、何か別の出来事があればまた意味は書きかわる。

自分の人生に当てはめても、歩んできた道、してきた経験の捉え方は常に変わってきた。
誇りに思ってきた経験が、実は無意味だったのではないかと絶望したり、逆に無意味だと思ってきたことに意味があると思えたり。
大抵、現在・近過去の自分を肯定出来る経験があると全ての過去はポジティブな意味合いで捉え直される。
トラウマのような経験があり、かつ今の自分が満たされていないとするならば、その責はその原初体験にあると人は捉えがちだ。
しかし、「今、幸せだ」「今の自分が好きだ」と肯定することができた時、もしかしたらそのトラウマ体験はある種自分を見つめることができたきっかけとしてポジティブに変わる。過去は未来によって変わる。あるいは、「過去は常に更新される」ということだと思う。
「終わりよければ全て良し」とは本来こういう意味なのかもしれない。

物語は、蒔野を欲するマネージャーの三谷によって、二人は意図的に誤解し結ばれずに別々の道を進む。
「二人が結ばれるというあり得たはずの未来」を思い描きながら。やがて蒔野は三谷と結婚し、子供も生まれる。
しかし終盤、三谷が罪を告白する。しかし、蒔野は怒りや後悔を感じながらも、「現在が望まれるべきでなかった現在」とは思いたくなかった。それを否定した時、我が子も否定することになるからだ。

子供という存在は、そういう意味で、それだけで両親を肯定するものなのかもしれない。
二人の間にしか生まれえなかった子供。あなたなしでは、絶対に存在しえなかった存在。
その子が人生を肯定できるのであれば、それだけで両親が果たした役割はまた大きい。

あらゆる過去は現在によって、強く意味のあるものにできるとも言えるし、逆に、それくらい「意味のないもの」なのかもしれない。そんな風に思った。