しがない感想文

映像制作に関わるサラリーマンの、本や映画の感想ブログ。

マチネの終わりに

私は普段、都内のテレビ制作の会社で働くサラリーマンで、
番組づくりに携わっています。もうすぐ30歳、大学を出て7年が経とうとしています。

ブログを書くのは大学以来。心のままに文章を書く機会を得たいと思い、
本や映画・テレビドキュメンタリーなどで心を打たれるものがあった時は出来るだけ自己満足にならない
感想文を書き記すべく、こうしてブログを始めます。
ほとんどの人の目に触れないのではないかと思いますが、地道に続けていけたらと思います。

最近読んで印象に強く残ったのが平野啓一郎の「マチネの終わりに」。

マチネの終わりに

マチネの終わりに

世界で活躍するギタリストと、フランスの通信社の記者、ともに40歳という年齢の二人が主人公の恋愛小説。
ストーリーが進むとともに「時間」が積み重なっていく。冒頭は「二人の出会い」から始まり、ラストに至るまでには数年の時が流れる。時間の経過は、それぞれのシーンの意味合いを変えていく。

この小説の最も重要なテーマとなる言葉が冒頭で主人公から発せられる。
「人は変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えている。
変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去はそれくらい繊細で感じやすいものである。」

小説の中で”過去の変様”は様々な表現のされ方をする。クラシック音楽では冒頭のテーマの持つ意味が、終盤になると変わる。
つまり全体の中に位置付けられて、初めて本当の意味を持つ。
子供の頃ままごとをしていた庭石に、その後、祖母が転んで頭を打ち付けて亡くなる。幼少期の庭石の記憶は、書き換えられる。
確かに過去の捉え方は常に変わる。もしかしたら、その庭石で飼い猫が救われるとか、何か別の出来事があればまた意味は書きかわる。

自分の人生に当てはめても、歩んできた道、してきた経験の捉え方は常に変わってきた。
誇りに思ってきた経験が、実は無意味だったのではないかと絶望したり、逆に無意味だと思ってきたことに意味があると思えたり。
大抵、現在・近過去の自分を肯定出来る経験があると全ての過去はポジティブな意味合いで捉え直される。
トラウマのような経験があり、かつ今の自分が満たされていないとするならば、その責はその原初体験にあると人は捉えがちだ。
しかし、「今、幸せだ」「今の自分が好きだ」と肯定することができた時、もしかしたらそのトラウマ体験はある種自分を見つめることができたきっかけとしてポジティブに変わる。過去は未来によって変わる。あるいは、「過去は常に更新される」ということだと思う。
「終わりよければ全て良し」とは本来こういう意味なのかもしれない。

物語は、蒔野を欲するマネージャーの三谷によって、二人は意図的に誤解し結ばれずに別々の道を進む。
「二人が結ばれるというあり得たはずの未来」を思い描きながら。やがて蒔野は三谷と結婚し、子供も生まれる。
しかし終盤、三谷が罪を告白する。しかし、蒔野は怒りや後悔を感じながらも、「現在が望まれるべきでなかった現在」とは思いたくなかった。それを否定した時、我が子も否定することになるからだ。

子供という存在は、そういう意味で、それだけで両親を肯定するものなのかもしれない。
二人の間にしか生まれえなかった子供。あなたなしでは、絶対に存在しえなかった存在。
その子が人生を肯定できるのであれば、それだけで両親が果たした役割はまた大きい。

あらゆる過去は現在によって、強く意味のあるものにできるとも言えるし、逆に、それくらい「意味のないもの」なのかもしれない。そんな風に思った。