しがない感想文

映像制作に関わるサラリーマンの、本や映画の感想ブログ。

ハンナアーレント

「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には、動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。(彼のような犯罪者は)人間であることを拒絶した者なのです」
アイヒマンは人間の大切な質を放棄しました。思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となった。思考が出来なくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。”思考の嵐”がもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考えぬくことで、破滅に至らぬように。」

まず、映画のあらすじはこうだ。
舞台は、第二次世界大戦から20年が経ったアメリカ。ドイツ出身のユダヤ人の女性哲学者・ハンナアーレントは、ナチス政権下で弾圧にあい、戦時中にアメリカに逃れてきた。物語は、ナチスの親衛隊将校で、数百万人ものユダヤ人を収容所へ移送したアドルフ・アイヒマンが逮捕されるシーンから始まる。アーレントは、イスラエルで行われた彼の裁判を傍聴し、雑誌・ニューヨーカーでレポートを書くことになる。しかし、彼女が裁判で見たアイヒマンユダヤ人の多くが求めていた残虐な人間性ではなく、官僚的な受け答えしかできない、あまりにも「平凡」な姿だった。彼はナチスドイツでの法の下に、ただ自分の役割をこなしていただけだったのだ。この「凡庸なる悪」を指摘した彼女のレポートは、ユダヤ人達にアイヒマン擁護だとして強烈に批判されていく・・

この映画を見たのは、2回目。はじめて見たときはアーレントの語る「悪の凡庸さ」という言葉に衝撃を覚えた。人間は巨大なシステムの歯車になるとき、そのシステムがもたらす結果についての責任など感じない。それは感覚的によくわかる。数百万人の虐殺をもたらすことがアイヒマンにわかっていても、彼の目の前にあるのは自分の役割だけだった。それは、さながら機械である。思考するということは、無条件に信頼するもの、があってはならない。システムの僕となったとき、いつの間にか自分が悲劇の加害者になる。この危険性は明らかに、誰もが直面する問題だと思う。

そもそも、現在のグローバル資本主義というシステムは、世界全体の富を押し上げつつ、各国での富の集中と貧富の格差を生み出すものだが、そこに生まれる弱者、格差のボトムにいる人間達を生み出すということは、ある種資本主義というシステムで生きる上で誰もが加害者であるということに他ならないと思う。資本主義に乗らずに生きることは難しいから、ある種免れ得ない「悪」だと思うが、しかし、生きているだけで自分が加害者であるという意識を持つ人はほとんどいないだろう。

破滅に至る前に、善悪を、美醜を、人は見分けなければならない。常に、自分が悪に加担している、自分が醜なる存在である可能性を考えなければ、気づけば破滅がやってくる。2017年の現在も、ユダヤ人虐殺ほど明瞭な形でなくとも、誰もがアイヒマンになりうるのだと思う。

大事なのは思考すること。今の時代は以前にも増して自分の頭で考えるということが難しくなっているような感覚を覚える。ネットを介して、情報が洪水のように押し寄せ、機械的にその情報を処理することに追われ、立ち止まって思考する、という時間が人に与えられていないように思う。思考するために、意識をせねばならない時代。しかも、アーレントがいう善悪や美醜など気にしていられないという時代にもなっていると思う。善悪、美醜に絶対的なものはない。ただ、そこには公共的な観点があるべきだと思う。そして、公共的な意識を持って考えることを忘れなければ、少なくとも破滅には向かわないのではないかと思う。
自分は、善悪や美醜を自分なりに思考し、感じながら、生きていきたいものだなと思った。